夏の浜辺での思い出。大学1年の夏、僕は美術サークルの合宿で小豆島のビーチを訪れた。当時僕は同じサークルの中に意中の人がいて、七夕の夜に告白して断られてから1カ月が経過していた。合宿一日目の夜、僕は先輩が彼女の手を引いて浜辺へと消えていくのを見た。
翌朝の浜辺は太陽のぎらぎらした光を浴びて、誰一人見当たらなかった。彼女が現れるかもしれないという物語のような空想をしながら、熱風の吹きつける浜辺を一人で歩いた。「すべてが終わった」と思った。マーラーの交響曲第5番の「アダージェット」が何度も響いていた。夏休みに入る前、ドイツ語の授業で視聴したビスコンティ監督の映画『ベニスに死す』の映像と音楽が僕の頭には焼き付いていたのだった。
『ベニスに死す』はドイツの作家トーマス・マンの小説で、主人公の作家グスタフ・エッシェンバッハがベニスの浜辺で見かけた美少年に憧れるというストーリーです。最終的には、美少年はベニスを去り、主人公はコレラにかかって死にます。トーマス・マンはマーラーをこの小説の主人公のモデルにしました。そして、この小説を映画にしたビスコンティは第5交響曲の「アダージェット」を用いました。映画のシーンのほとんどがベニスの浜辺ということもあり、「海」と「アダージェット」は切っても切れない関係になっています。マーラーが第5交響曲を作曲したのは、トーマス・マンと知り合う前のことで、マーラー自身はこのような映画に自分の曲が使われるとは考えもしなかったことでしょう。
さて。「海」とは無関係に作曲されたこの曲のテーマは「憧れしものとの別れ」です。マーラーはおそらく自分に自信がなかったのでしょう。アルマと結婚したばかりの年に、もうこのような音楽を書いているのですから。曲は弦楽器とハープのみで演奏されるモノクロトーンの音楽です。他の楽章がマーラー独特の色彩感ある音楽であるのに対して、このアダージェット楽章だけが昔のフィルムを回しているように異質に感じられます。それだけにとても強い思いが作曲者の中にあったのでしょう。ただ、その時彼が気付いていないことが一つだけありました。「憧れしのもが彼から去っていくのではなく、彼が自分勝手に憧れしものから遠ざかっているのだということ」を。
